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震える手


記事を書かなかった。
それはそれで毎日は過ぎていき、感情は移り変わってゆく。

今恐怖しているのはなんだろう。毎日が流れ行く中で、何も掴めず掴もうとしない。
行動が出来ないのだ。それでいて、ただ怯えているだけなのだ。

何か書きたいことだあってどうしても言いたい事があったはずなのに、忘れてしまった。

泣きたい。


07/27 18:47 | 極東孤独評論社 | CM:0 | TB:0
なぜ人は恋をするのか?
次々と今期の深夜アニメが最終回を迎えてゆき、それで季節が巡っていくのを感じる。そのやるせない思いと、来期のアニメが楽しみだったりでそれはそれで季節の変わり目を切なくも優しく向かい入れようとする瞬間でもある。


恋をすることは人類最大の謎と言っても過言ではない。古今東西なぜだか人は恋に囚われたように生きている節もある。歴史は愛と戦争の繰り返しなんて言葉もあるくらいだ。
ではなぜ人は他人を求めるのだろうか。僕は同性愛否定派ではないのであえて異性を求めると云い回さないでおく。恋とはなんぞや?
もうすぐ四半世紀も生きているにも関わらずその謎は未だに僕自身の中で解決されていない。しかし、この欲求は半分は本能によるものではないかと考えられる。人間は三つの欲求がある。寝ること、食べること、そして性的欲求。
恋はその全てを兼ね備えているのではないか。

例えば寝る時は一人で眠るのは寂しい。食べる時も一人では寂しい。一人での性的欲求は虚しい…。
その全てを埋めて欲しくて人は恋をするのではないのだろうか。
さらに特定の他人とそれが出来たらどんなに素晴らしいことだろう。などなど…

それが恋をするきっかけになるものなのではないだろうか。

しかし僕に芽生えるこの感情は決して恋などではなくもっと尊く儚いものなのだ。

06/28 22:42 | 極東孤独評論社 | CM:0 | TB:0
もどかしい世界の上で
信じていたものは都合のいい妄想。
 
 そうだ。あれからどれだけの月日が流れていったのか。米子を出て三年と数ヶ月。そしてそれ以上に離れていったものがある気がするのだ。何か宗教概念みたいに取り付いていたその場所は僕から遠く離れていった。そして妙な脅迫概念から解き放たれていった時に求めた場所は、真から想える場所なのだろう。それでいいのだ。僕は大学に入れてよかったと思う。こんなにも自分を高めていくことが出来た。毎日忙しく過ごしているわけではない。しかし、物質的には忙しくなくとも、この頭の中は絶えずフル回転している。日々の生活に追われることなく、フル回転できるのだ。それはこの時期にしかできないことである。だから僕は誰よりも忙しい。考えることに忙しく、悩むことに忙しいのだ。

 つい先日、海を見に行く機会を得た。電車を京阪線、学研都市線、山陽線を乗り継ぎ、須磨の海へ行ってきた。淡路島に続く、明石海峡大橋が目の前に広がり、穏やかな瀬戸内海がそこにあったのだ。瀬戸内海は穏やか過ぎて、砂浜の砂の粒は大きく、何か物足りない感じであった。僕は日本海こそ、我々の海であると感じている。潮風が吹き付ける海でなくては海ではないのだ。
 そして僕はまだ見ぬ、いつかの映画に出てきた何処までも遠浅の続く海のことを想った。そんな海を僕は見てみたい。現状を過去にしがみ付いて過ごすのはゴメンなのである。

 今の現状に満足しているのか。と聞かれれば、ある一部では非常に満足し、ある一部では非常に不服であると、答えるだろう。
結局ホワイトカラーな仕事は出来そうにもない。ブルーカラーとホワイトカラーの中間を行き来することになりそうである。
 この世界は差別と偏見と不条理と一般的と常識に埋め尽くされている。どうしても僕はうまくそれに乗っかることは出来ないのだ。
 何も疑問を抱かずに生きてはいたくないのだ。最高にドラマチックにエキセントリックに生きていたいのだ。時々想う。みんなは現状に満足しているのであろうか。僕には分からない。判断するのは自分自身である。どんな仕事をして、どんな生活をしていても、客観的な視点と主観的な目線ではずいぶんとかけ離れているものなのである。しかし、大多数は客観的な視点をなおよしとする傾向にあるのだ。どうしてもそれを崩せない。
 就職活動をしていて一つ気付いたことがある。(現在も活動中であるが)どんなに年をとろうとも、レベルの高い学府に通おうともしょうもない人間はいるのだ。と言うことだ。こんなしょうもない人々が日本を回していると思うと、ゾッとすることが多々あった。その反面一生かけてもこの人には追いつけないだろう。と言う人間にも何人も出逢った。一瞬見ただけで、その人の目に見えぬものが、それを感じさせていた。

 そして思うのだ。果たして間違っているのは向こうなのかこっちなのか。いつもそれに戸惑ってしまうのだ。

 言葉にすれば自分の感情、感覚はその時点で失われる。多くの声にならない叫びを聞いて、それでも他に伝える手段を知らない人間は儚い。
 インテリジェンスに思慮深く生きたいのだ。それが自分自身と似合っていない生き方であると重々承知している。しかしそれを目指して何が悪いのだろう。
 他人を見下し、自分自身を信じれず、自意識過剰と自己嫌悪の狭間にいつまでも揺れていたいのだ。その幅をもっと大きくしていきたい。そんなもんだとか、仕方がないなど言いたくないのだ。
 

 牧野由依の曲を昨日から聴いています。とても癒される。癒しを求めるほど飢えてはいないはずなのに。相変わらず毎週三冊ほど本を読んでいる。どんな風に過ごしても、きっと終わりはあるのだから。
 云いたいことはきっと4%も云えてない。
 もどかしいよ。
06/15 23:06 | 極東孤独評論社 | CM:0 | TB:0
一途な想いは
とらドラ!1とらドラ!1
(2006/03/25)
竹宮 ゆゆこ

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恋をしたことないやつなどこの世にはいない。自分自身が気づいているのかどうかは別にして。今俺は21歳なのだが今になって思う。高校生の頃のような恋愛はもう二度とできない。そんな気がする。いい意味でもダメな意味でも、もう出来ないのだ。少なくとも俺は出来ない。

誰かを一途に好きになれるなんてことは。自分の立場とか相手の立場とか、それぞれを取り巻く環境とか、セカイとか、そんなもんぶっ飛ばすくらい誰かを好きになれることがもう出来ない。そして高校生の頃にそれが100%出来ていたのか、と聞かれたら自信はないが、それでもそれを出来る環境にあった。そして自分自身がそれを出来る「思春期」と呼ばれる場所にいた。

今はどうだろう?そうではないな。極論を話せば「大人になったのだと思う」そして、その頃を若かったと笑う。そうなのだ。そういうもんなのだ。その頃の気持ちなんか思い出したくもないのだが、取り返すことは出来ない。触れることも、同じことを行うことも、もう許されない気がする。自分自身が「大人になった」なんていうヤツはろくなヤツはいないのだが、俺は恋愛に関してはそう思う。

臆病になった、と言うべきか。空気や立場を考えれるようになったと言うべきか。
「とらドラ!」を読んでいてふとそんなことを考えてしまった。

01/25 00:27 | 極東孤独評論社 | CM:0 | TB:0
プールサイド
フユ



自分自身の弱さをどれだけ許すことができるだろうか。許してもいいものなのかもわからない。毎日学校から帰った後はパソコンに向かう日々だ。どおでもいい情報だけが目から脳に流れ込んでくる。結局タバコを吸い、夜更け近くに眠っている。生産性のかけらもない生活だ。誰の役にも立っていない。別に誰かの役にたちたい訳ではないのだが。寂しさを埋めるためにネットの世界へもぐりこんでいく。かといって2ちゃんやオンラインゲームをしている訳ではないのだが。

友達にも親にも就職活動をがんばると言って京都に戻ってきた。
リクナビすらアクセスせずにいる。やらなければならない。ということが非常にいやだ。やりたい。のではないから。
でも働きたい。就職はしたい。

やる気が起きない。なんでこんなことになってしまったのか。結局誰かや時代のせいにしていれば、よかった。それで下らない自分自身を必死に守ってきたんだろうな。しょうもなさすぎる。

客観的に見てダメだとはわかるのだが、主観的にはまぁいいかな。などとぼやく。

昨日のやる気もむなしく、どうしようもない。


写真と絵と言葉でなんかしたい。
やりたいことはどんどん浮かぶ。

やらなきゃならないことに目をつぶりながら
01/06 22:59 | 極東孤独評論社 | CM:0 | TB:0
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