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小さな冷たい手や 冬の日の髪の匂いも
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信じていたものは都合のいい妄想。
そうだ。あれからどれだけの月日が流れていったのか。米子を出て三年と数ヶ月。そしてそれ以上に離れていったものがある気がするのだ。何か宗教概念みたいに取り付いていたその場所は僕から遠く離れていった。そして妙な脅迫概念から解き放たれていった時に求めた場所は、真から想える場所なのだろう。それでいいのだ。僕は大学に入れてよかったと思う。こんなにも自分を高めていくことが出来た。毎日忙しく過ごしているわけではない。しかし、物質的には忙しくなくとも、この頭の中は絶えずフル回転している。日々の生活に追われることなく、フル回転できるのだ。それはこの時期にしかできないことである。だから僕は誰よりも忙しい。考えることに忙しく、悩むことに忙しいのだ。 つい先日、海を見に行く機会を得た。電車を京阪線、学研都市線、山陽線を乗り継ぎ、須磨の海へ行ってきた。淡路島に続く、明石海峡大橋が目の前に広がり、穏やかな瀬戸内海がそこにあったのだ。瀬戸内海は穏やか過ぎて、砂浜の砂の粒は大きく、何か物足りない感じであった。僕は日本海こそ、我々の海であると感じている。潮風が吹き付ける海でなくては海ではないのだ。 そして僕はまだ見ぬ、いつかの映画に出てきた何処までも遠浅の続く海のことを想った。そんな海を僕は見てみたい。現状を過去にしがみ付いて過ごすのはゴメンなのである。 今の現状に満足しているのか。と聞かれれば、ある一部では非常に満足し、ある一部では非常に不服であると、答えるだろう。 結局ホワイトカラーな仕事は出来そうにもない。ブルーカラーとホワイトカラーの中間を行き来することになりそうである。 この世界は差別と偏見と不条理と一般的と常識に埋め尽くされている。どうしても僕はうまくそれに乗っかることは出来ないのだ。 何も疑問を抱かずに生きてはいたくないのだ。最高にドラマチックにエキセントリックに生きていたいのだ。時々想う。みんなは現状に満足しているのであろうか。僕には分からない。判断するのは自分自身である。どんな仕事をして、どんな生活をしていても、客観的な視点と主観的な目線ではずいぶんとかけ離れているものなのである。しかし、大多数は客観的な視点をなおよしとする傾向にあるのだ。どうしてもそれを崩せない。 就職活動をしていて一つ気付いたことがある。(現在も活動中であるが)どんなに年をとろうとも、レベルの高い学府に通おうともしょうもない人間はいるのだ。と言うことだ。こんなしょうもない人々が日本を回していると思うと、ゾッとすることが多々あった。その反面一生かけてもこの人には追いつけないだろう。と言う人間にも何人も出逢った。一瞬見ただけで、その人の目に見えぬものが、それを感じさせていた。 そして思うのだ。果たして間違っているのは向こうなのかこっちなのか。いつもそれに戸惑ってしまうのだ。 言葉にすれば自分の感情、感覚はその時点で失われる。多くの声にならない叫びを聞いて、それでも他に伝える手段を知らない人間は儚い。 インテリジェンスに思慮深く生きたいのだ。それが自分自身と似合っていない生き方であると重々承知している。しかしそれを目指して何が悪いのだろう。 他人を見下し、自分自身を信じれず、自意識過剰と自己嫌悪の狭間にいつまでも揺れていたいのだ。その幅をもっと大きくしていきたい。そんなもんだとか、仕方がないなど言いたくないのだ。 牧野由依の曲を昨日から聴いています。とても癒される。癒しを求めるほど飢えてはいないはずなのに。相変わらず毎週三冊ほど本を読んでいる。どんな風に過ごしても、きっと終わりはあるのだから。 云いたいことはきっと4%も云えてない。 もどかしいよ。 * コメント *
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